TGF-βファミリーのシグナル異常が
PAHの発症に関わることに注目
肺動脈性肺高血圧症(PAH)は、肺動脈が縮んで、血管が狭くなったり詰まったりして、肺動脈圧が高くなる疾患である。肺の血液循環がうまくいかなくなり、心臓に負荷がかかって、やがては心不全に至る予後の悪い難病だ。血管拡張薬といった症状を改善する薬以外には、いまだ根本的な治療法は見出されていない。
このPAHの病態・発症メカニズムに迫ろうとしているのが、伊東史子准教授だ。伊東准教授は、長年「TGF-βファミリー」をターゲットに研究している。「TGF-βファミリーは、生命維持に不可欠なサイトカインで、ファミリーにはTGF-β、骨形成因子(BMP)、アクチビン(Activin)などの因子が含まれます」
TGF-βファミリーは、細胞膜上のⅠ型およびⅡ型受容体を介して、細胞内シグナル伝達分子のSmadをリン酸化してシグナルを核に伝達し、標的遺伝子の発現を調節している。「中でもBMPは、Ⅱ型受容体(BMPRⅡ)とⅠ型受容体(ACVRL1/ALK6)、エンドグリン(ENG)をリガンドとして、Smad1/5/9をリン酸化し、Smad4と結合して核内に移行するというシグナル伝達経路をたどります。一方TGF-βやアクチビンは、Smad2/3、およびSmad4を用いてシグナルを伝達します。つまりSmad4は、BMP、TGF-β、アクチビンのいずれの伝達経路にも必須の分子です。これらTGF-βファミリーのシグナル異常が、PAHや家族性出血性抹消血管拡張(HHT)、マルファン症候群などの難治性血液疾患の原因になることが知られています」と説明する。とりわけ注目したのが、血管内皮細胞のBMPシグナルの遮断によって、PAHを発症することだ。
例えばオスラー病ともいわれるHHTは、全身の血管に異常が起こる遺伝性疾患であり、HHT患者の約1割はPAHも併発することが知られている。これまでにPHAの原因遺伝子として、BMPのⅡ型受容体(BMPRⅡ)とⅠ型受容体(ACVRL1/ALK1)、ENG、Smad1、Smad9、GDF2が、またHHTの原因遺伝子としてⅠ型受容体(ACVRL1/ALK1)、ENG、Smad4が同定されている。PAHとHHTの原因遺伝子を見比べると、BMPのⅠ型受容体(ACVRL1/AKL1)及びSmad4が共通していることがわかる。つまりBMPシグナルの伝達系の異常が、PAHおよびHHTの発症に関わる可能性があるわけだ。「BMPとTGF-β・アクチビンは、Smad4を取り合うことでバランスを保ち、血管の恒常性を維持していると考えられています。BMPシグナルが低下すると、Smad4を取り合う相手がいなくなり、TGF-β・アクチビンシグナルが過剰に亢進します。これによって血管の機能が破綻することが、PAHの発症につながるのではないかと推測しています」。伊東准教授は、強みとする遺伝子改変マウスを使って、これを検証しようと試みた。
遺伝子改変によって新しいPAHモデルマウスの作製に成功
まず取り組んだのが、PAHモデルマウスの作製だ。伊東准教授は、遺伝子改変によって血管内皮細胞特異的にシグナル伝達分子のSmad1とSmad5を欠損させたマウスと、Smad4を欠損させたマウスを作製した。Smad1/5の欠損は、BMPのシグナル伝達を遮断し、Smad4の欠損は、BMP、TGF-β、アクチビンすべての伝達経路を遮断することになる。
すると、「Smad4の欠損マウスが、1カ月以内にすべて死亡したのに対し、Smad1及び5を欠損させた場合はそれ以上に早く、2週間も経たないうちにすべてのマウスが死亡しました」と言う。またSmad1/5欠損マウスには、右心室収縮による肺高血圧や右心室肥大といったPAH様の病態が認められ、肺の血管構造にも、PAHに典型的に見られる構造異常が確認された。つまり伊東准教授は、Smad1/5欠損によってBMPシグナル経路を遮断した新しいPAHモデルマウスの作製に成功したわけだ。
PAHの治療薬に創製に新たな可能性が見えてきた
次に、この新規PAHモデルマウスを使って、先の仮説を実証できるかを検証した。「BMP経路を遮断したPAHモデルマウスの肺の血管内皮細胞を調べたところ、Smad2のリン酸化分子が顕著に増加していることが確認されました。またTGF-β・アクチビンの標的分子の発現の増加も見て取れました」。この結果は、BMPシグナル経路の遮断に伴って、TGF-β・アクチビン経路が亢進したことを示唆している。まさに伊東准教授の予測が、裏付けられたといえる。これに続けて、新規PAHモデルマウスにTGF-β及びアクチビンの阻害剤を投与し、PAHの治療効果についても検証している。TGF-β、またはアクチビンを阻害すれば、相対的にBMPシグナルが亢進されて崩れた均衡が回復し、PAHの治療につながる期待が高まる。「新規PAHモデルマウスにTGF-β阻害FCを投与したところ、多少の病態改善が見られたものの、十分とはいえませんでした。バランスを回復するには、TGF-βだけでなくアクチビンシグナルも遮断する必要があると考えられます」と伊東准教授。そこで現在は、新たにTGF-βの受容体(ALK5)とアクチビンの受容体(ALK4)を欠損させたマウスを作製。このALK5・ALK4のコンディショナルノックアウトマウスとBMP経路を遮断したPAHモデルマウスを交配させ、PAHの治療効果があるか、検証を進めている。
伊東准教授の研究によって、PAH発症のメカニズムの解明と新たな治療薬の開発に、希望の光が見えてきた。