抗がん薬の効果・副作用には個人差がある
これまでに数多くの抗がん薬が開発され、治療成績は着実に向上してきている。「一方で、抗がん薬の効果や副作用の発現には個人差があり、同じ薬を投与しても、十分な効果が得られない人や重い副作用に苦しむ人もいます。それらを回避するために、患者一人ひとりに最適化された『個別化治療』の実現が、強く求められています」と語るのは、横川貴志准教授だ。
横川准教授は、抗がん薬治療における個人差の要因を、遺伝学的・生物学的視点から明らかにし、個別化治療の実現へとつなげる研究に取り組んでいる。特徴的なのは、全国の医療機関と連携し、臨床と基礎の両面から課題の核心に迫ることだ。20年にわたるがん専門病院での臨床経験、そしてその中で培った幅広いネットワークが、研究を支える強固な基盤となっている。
「世界的な超高齢化が進む中、がん患者数は増加の一途をたどり、医療費のさらなる増大が予測されています。一方で、多剤併用による重篤な副作用リスク、いわゆるポリファーマシーの問題も、年々深刻化しています。こうした課題を解決するためにも、個別化治療の実現は極めて重要な意味を持ちます」と、研究意義を語る。
抗がん薬ゲムシタビンの
治療効果に影響する遺伝学的因子の研究
現在、抗がん薬の薬効発現に関わる遺伝学的因子の解明を目指し、研究を進めている。焦点を当てているのが、ゲムシタビンだ。ゲムシタビンは、膵臓がん治療のキードラッグの一つであり、その治療効果の差が予後に大きく影響する。
「ゲムシタビンは、膜トランスポーターを介して細胞内に取り込まれた後、代謝酵素によって活性化され、抗がん作用を発揮します。この一連の過程に関与する代表的遺伝子として、SLC29A1、DCK、RRM1/2、ABCC5、CDAなどが知られています。我々は、これらの遺伝子多型の存在が、ゲムシタビン治療における個人差の一因と考えています」と横川准教授は語る。その仮説を検証するために、全国13施設(医療機関・大学)の薬剤師・医師・大学教員が協力した、多施設共同の臨床試験が実施された。
遠隔転移を有する膵臓がん患者を対象に、ゲムシタビンの治療反応性に関与しうる13種の遺伝子多型を解析した結果、DCKおよびABCC5の遺伝子多型が、ゲムシタビンの治療効果に関連する可能性が示唆された。本研究成果は、2024年にサンフランシスコで開催されたASCO-GIにおいて、横川准教授によって発表された。そして現在、海外英文誌への投稿が進められている。
副作用との関連性についても現在解析中であり、「効果・副作用予測に有用な遺伝子多型が明らかになれば、治療選択や投与量の最適化に資するバイオマーカーとなり得ます」と期待を寄せている。全国の医療機関と連携し、臨床と基礎の知見を相互に橋渡しすることで、日本はもとより世界にインパクトを与える研究成果の発信を狙っている。
悪心・嘔吐の重症化に影響する生物学的・遺伝学的因子の研究
それに加えて現在、抗がん薬の代表的な副作用である悪心・嘔吐(CINV)に関する研究にも取り組んでいる。「制吐薬の進歩により、嘔吐は概ね制御可能となりました。一方で、悪心は個人差が大きく、克服すべき課題が多く残されています」と研究背景を語る。
横川准教授によれば、CINVのリスク因子として若年、女性、悪阻の既往などが知られており、同じ抗がん薬を投与した場合でも、高齢男性と若年女性とでは、CINV(特に悪心)の発生率に明らかな差が生じるという。「現行のガイドラインでは、抗がん薬の催吐リスク(高度・中等度・軽度・最小度)に応じて、制吐薬の選択と組み合わせが推奨されています。しかしながら、この一律的なアプローチでは、患者の背景因子によって過剰投与あるいは過少投与となる可能性が否定できません」と横川准教授は指摘する。こうした現状を打破するためには、制吐療法の個別化に資する知見の蓄積が重要となる。
横川准教授らは、CINVが重症化しやすい若年女性に着目し、その背景にある生物学的・遺伝学的因子を解明しようとしている。「研究仮説として、エストロゲンのような女性特有の内因性ホルモンと特定の遺伝子多型の影響を考えています。それらが、神経ペプチドであるサブスタンスPとその受容体を介して、嘔吐中枢刺激経路の感受性を亢進すると推測しています」と語る。
仮説の理論構築に向けて、まず約640例の患者データを解析し、化学療法開始前のエストラジオール(エストロゲンの一種)の血清レベルが、悪心の重症度と関連することが示された。また、閉経前の患者は、閉経後の患者と比較して、悪心の重症割合が有意に高いことが示され、仮説を支持する結果が得られている。さらに、制吐療法の多施設共同第Ⅱ相試験に付随した遺伝子多型解析も進められており、その成果は近く横川准教授により公表される予定だという。仮説の理論的基盤が整ったことを受け、CINV重症化に影響する内因性因子と遺伝学的因子を検証する臨床試験が、横川准教授によって現在計画されている。重症化のメカニズムが解明されれば、制吐戦略の個別化に資する画期的な成果につながることが期待される。
横川准教授は、これからも臨床研究と基礎研究を有機的に連携させ、より実践的かつ患者志向の研究を進めていく方針だ。「患者一人ひとりに、効果的で安全な治療戦略を提供するための科学的根拠を創出し、がんの個別化治療の実現に貢献したい」と、意欲を燃やしている。