年末の日本では、「第九」の演奏会が風物詩です。この曲を聴くと、今年もいろいろあったけれども、晴れやかに新年を迎えようという気持ちになります。コロナ禍では演奏会に行けなかったことも、遠い記憶になりつつあります。
音の無い世界の作曲家
ベートーヴェン(1770〜1827)は、ドイツのボンで生まれ、22歳以降はオーストリアのウィーンを本拠としました(参考1)。若くしてピアニストおよび作曲家として名声を博しますが、27歳のときに聴覚に異常が現れ、次第に深刻化しました。
新進音楽家として注目を集めるベートーヴェンにとって、聴力を失うことは死にも等しい絶望感です。31歳のとき(1802年)、弟に宛てて「ハイリゲンシュタットの遺書」を書きます。それでも苦悩に創作意欲が勝り、1804年に交響曲第3番「英雄」を作曲しました。その後、1808年に第5番「運命」と第6番「田園」などと、数々の名曲を生み出して大作曲家の道を歩んでいきます。しかし、1818年頃から聴覚の衰えが増します。交響曲第9番は1823年に作曲されましたが、そのときは既に聴力を失っていました。苦難の道を歩んだ大作曲家が生み出した第4楽章の後半部には、天に突き抜けるような歓喜があります。
スメタナ(1824〜1884年)もまた、聴力障害で苦しんだ作曲家です。スメタナは、1874年に聴力障害を発症し、3ヶ月で聴力を完全に失いました。「モルダウ」を含む六つの交響詩からなる「わが祖国」が作曲されたのは、1874年から1879年にかけてでした。
聴覚に障害が生じることは、音楽家・作曲家にとって、とてつもないハンディキャップであり、恐怖と思われます。しかし、ベートーヴェンもスメタナも、聴力を失った後に、音楽をさらに深化させました(参考2)。
光の無い世界のピアニスト
FM放送で音楽を流しながら書き物をしていたら、ドビュッシーのピアノ曲「月の光」が聞こえてきました。心に染み、聴き入ってしまいました。演奏者は、辻井伸行(1988〜)でした。辻井は、2009年、20歳のときにヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝しました。また、出生時から眼球が成長しない「小眼球症」のため、生まれつき視力がないピアニストとしても知られます(参考3)。
辻井が「月の光」を含むドビュッシーのアルバムを発表したのは、2013年です。「月の光」は、視覚的なタイトルをもった曲ですが、2010年には、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」を収録したアルバムも発表しています。このような視覚的な題材を、生まれてから一度も光や物を見たことのない辻井は、どのようにしてイメージするのだろう? つい、そのようなことを思ったりもするのですが、彼なりのやり方で月の光や絵画を感じているのでしょう。
辻井は、ショパン・コンクールにも17歳のときに出場していますが、こうしたコンクールでは楽譜に忠実であることが求められます。辻井は、生まれてから一度も楽譜を見たことがありませんが、耳から聞いた音楽をピアノで演奏する能力を幼い頃から発揮していました(参考3)。ご両親にはたいへんなご苦労があったと思いますが、物心ついたときからピアノが大好きな辻井を、自立できるように育て上げました。
辻井の演奏を何度か聴きに行ったことがあります。手を引かれてステージに登場してピアノの前まで進みます。顔を左右に振りながら歩きますが、そうやって周囲の音を聞き取ることで、自分の位置やホールの様子を把握しているのでしょう。ピアノの前で一礼してからは、辻井伸行の音楽の世界が広がります。
ダニエル・キッシュのエコーロケーション
エコーロケーション(反響定位)とは、動物が音や超音波を発し、その反響によって物体の距離・方向・大きさなどを知ることです。コウモリやイルカ、マッコウクジラなどは、超音波を使ってエコーロケーションを行っています。
視覚障害者の中に、エコーロケーションの能力を身につけている人たちがいます。杖でコンクリートをたたく音や舌を鳴らした音などの反響で、横に塀があるといったような周囲の状況がわかるそうです。ダニエル・キッシュ(1966年〜)は、人間におけるエコーロケーションの専門家です(参考4)。
キッシュは、先天的な目の病気(網膜芽細胞腫)により、生後13カ月までに両眼を失いました(参考5)。しかし、程なく「舌打ち音(クリック音)」を立てながら動き回るようになりました。今では、主にこのエコーロケーションを頼りに行動しています。彼はこの方法を「フラッシュソナー」と呼び、舌で作るクリック音の助けを借りて情報のパターンを受け取り、脳内でイメージを作り出すそうです。参考5の動画では、自転車を乗り回すなど、フラッシュソナーを使ってさまざまな行動をする様子を見ることができます。
キッシュは、視覚障害者を支援する非営利団体World Access for the Blind(WAFTB)を2000年に設立しました。「フラッシュソナーを使って耳で見る」を教えることを通じて多くの人々の人生を変え、闇をより明確に見る能力を広め、盲目に対する一般の認識を変えることを目的としています。
潜在能力
生物には、さまざまな状況下で何とかして生きようとする本性があります。身体に何らかの機能障害が起きたとき、可能であれば別の機能を使ってそれを補います。環境が大きく変化したときは、潜在する能力を発現して対応しようとします。
13ヶ月で眼球を失ったキッシュは、誰から教わるでもなく、早々にフラッシュソナーを使って動き回ったそうです。そして、「耳で見る能力」を自ら育てていきました。赤ちゃんは、刺激によってさまざまな認知機能を発達させます。キッシュや辻井は、視覚刺激を受けない代わりに、聴覚に関する認知機能をより発達させたことと想像します。音楽の天分をもつ辻井は、早くから音への感性を磨き、世界的なピアニストへと育っていきました。
ベートーヴェンやスメタナの場合は、聴力を失う以前に音楽家として確立していました。しかし、苦難の中でも強い創作意欲を発揮することがなかったら、数々の名曲を、私たちは聴くことがありませんでした。
潜在能力を顕在化する
人は、さまざまな可能性を秘めて生まれています。早々に片鱗を見せる能力もあれば、きっかけがあって初めて顕在化するものもあります。
才能は、素質があるだけでは開花しません。ベートーヴェンも辻井も天賦の才に恵まれていましたが、それだけでなく、師や支援者や友人などさまざまな人との出会いがあってのことだったと思います(参考1,3)。
潜在能力を芽吹かせるためには、きっかけが必要です。自分にどのような能力が備わっているかを知るためには、成長期にさまざまな体験をし、興味のあることや得意なことを掘り下げる機会をもつことが不可欠です。より多くの若い人に、そうした機会をもってもらいたいものです。
音楽を触覚と視覚で楽しむデバイス
音楽を振動と光に変換するサウンドハグ(参考6)という球体のデバイスがあります。抱きかかえることで、⾳楽を触覚と視覚で感じることができます。これによって聴覚に障害があっても音楽が楽しむことができ、サウンドハグを備えた演奏会も催されています。このようなデバイスの開発が進むと、新たな可能性が見えてきます。いつか、触覚と視覚で音楽を楽しんだ人の中から、新たなクリエイターやアーティストが現れることでしょう。
【参考】
1. 青木やよひ、ベートーヴェンの生涯、平凡社(2018)
2. 大谷正人、大作曲家における聴覚障害の受容—ベートーヴェン、スメタナ、フォーレの場合—、三重大学教育学部研究紀要、55, 1-10 (2004)
3. こうやまのりお、ピアノはともだち 奇跡のピアニスト 辻井伸行の秘密、世の中への扉、講談社(2011)
4. ナショナルジオグラフィック日本版、リスク・テイカー、音で世界を「見る」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20130620/355092/
5. ダニエル・キッシュ、音で「見る」ことで、世界を動き回る方法, TED日本語 - https://digitalcast.jp/v/22348/
6. SOUND HUG、https://pixiedusttech.com/ja/technologies/sound-hug