有機化学

複雑な構造を持つ化合物の
効率的で美しい合成法を
探求する。

有機金属化学からスタートし
数多くの新規化合物を合成

有機合成化学の進展は、新しい合成方法の開発やこれまでにない活性を持った化合物の合成を可能にし、医薬品や機能性材料の創製に貢献してきた。伊藤久央教授は、大学時代にこの分野に足を踏み入れて以来、国内外でインパクトの大きい成果を数多く挙げてきた。

最初は有機金属化学の研究からスタート。博士課程では、ジルコニウム錯体を用いて新規の炭素-炭素結合形成反応を次々に開発し、3年間で12報もの論文を著すという驚異的な結果を残している。

アメリカ・スタンフォード大学に留学中の2000年には、直接的かつエナンチオ選択的なアルドール反応に関わる新しい触媒(ProPhenol触媒)の開発に成功した。アルドール反応は、炭素-炭素結合を形成する、いわば有機合成の基礎を成す反応の一つである。この触媒はSigma-Aldrich社から販売され、多くの有機合成研究で用いられている。

学生の力を鍛える天然物の全合成

東京薬科大学生命科学部に赴任してから現在まで力点を置いている研究の一つが、天然物の全合成である。生物が生体内で作り出す有機化合物には優れた活性を持つものがあるが、天然からは僅かしか得られない稀少なものも少なくない。「天然の有機化合物を人工的に作ることで、その構造を確定し、生理活性の研究に役立てることが可能になります」と伊藤教授は全合成研究の意義を語る。これまでの約20年間で、約50種もの天然有機化合物の全合成に成功してきた。

加えて「学生のトレーニングにおいても、天然物の全合成は非常に有効です」と伊藤教授。研究室の学生一人ひとりにテーマを与え、全員に全合成に挑戦させている。最近もその一人が、中国に生息するキノコの成分として発見されたアプラナツモールB(applanatumol B)の全合成に取り組んだ。この化合物は、炭素五員環上にシス型の不斉炭素が3連続する複雑な構造を持っている。学生は市販の化合物から10以上の工程を踏んで、立体選択的全合成を達成した。

「天然物の合成に、答えはありません。一工程ごとに数多くの反応条件を精査し、目的の化合物にたどり着く道筋を検討していく必要があります。全合成を達成するまでに20工程以上かかるものも少なくありません。壁にぶつかりながら試行錯誤する中で、合成する力が鍛えられます」と言う。複雑な骨格を持った天然有機化合物をいかに高効率にかつ美しく合成するか。それにはたゆまぬ研鑽に裏打ちされた研究者としての「ひらめき」が欠かせない。「しかしそれだけでは不十分です。合成の工程を前に進めていくには、確かな知識と理論も重要です」と強調する。伊藤教授の下で鍛えられた学生の多くが、製薬会社などで研究職として活躍している。

潰瘍性大腸炎の治療につながるPin1阻害化合物を合成

さらにもう一つ力を注いでいるのが、医薬品の創製につながる化合物の開発である。その一つとして、広島大学医学部の浅野知一郎教授、東京大学創薬機構の岡部隆義教授との共同研究で、Pin1阻害剤の開発を進めている。

伊藤教授によると、Pin1は、タンパク質中でプロリンをシス-トランス異性化する触媒として働く酵素の一つ。タンパク質の機能を調節し、がんや糖尿病、肥満などに関与していることが報告されている。

「最初にターゲットに定めたのは、潰瘍性大腸炎です。浅野教授の研究で、潰瘍性大腸炎の患部組織にPin1が過剰に発現し、その発症に関与していることがわかっていました。そこでPin1の発現を阻害する化合物の開発を試みました。ただし脳内のPin阻害は、アルツハイマー病の発症に関わることが知られているため、潰瘍性大腸炎を抑えつつ、脳まで届かないよう血中濃度を低く抑える化合物の合成を目指しました」

伊藤教授は、既知のPin1阻害剤を出発点に、分子中心の窒素(N)を酸素(O)に変え、アミド(炭素-窒素)結合をエステル(炭素-酸素)結合に変えたH-31を合成した。エステルなら血中に存在するエステラーゼ酵素によって速やかに加水分解されると考えたからだ。実際に合成したH-31を潰瘍性大腸炎のモデルマウスに経口投与したところ、疾病を抑えつつ血中にもほとんど検出されないことが確かめられた。

次のターゲットは、非アルコール性脂肪肝(NASH)。「今度は、薬剤が腸管で吸収された後、分解されずに肝臓まで到達する必要があります。そこでH-31のエステル部位のOをNに戻し、ウレア構造に変えたH-163を合成しました。こちらも経口投与でNASHへの治療効果を認められました」

ただ問題は、H-31、H-163のいずれも構造内にキラル中心(不斉炭素)を持ち、鏡像異性体が存在することだった。鏡像異性体は一方に薬効があっても、もう片方に甚大な副作用が現れる場合がある。そこで安全性の面からキラル中心を含まない化合物の開発を目指し、新たにH-77を合成した。これら3例とも効果を確かめ、特許出願を行っている。

現在は神経保護作用薬の開発に寄与する化合物の合成にも着手している。「東京薬科大学で開発した化合物から医薬品を創製し、世に送り出したい」と夢を語った伊藤教授。その実現に向け、今も研究に専心している。

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