6月、将棋の藤井聡太竜王が、史上最年少で名人位を獲得し、史上二人目の七冠となりました。
将棋の棋士(プロ)とは、四段以上の段位をもつ者です。藤井竜王・名人(以下、七冠)は、2016年に14歳で四段となり、五人目の中学生棋士として脚光を浴びました。AIを用いて手筋の研究をしていることが、当時からよく知られています。今、多くの棋士がAIを活用して戦法を研究し、藤井七冠に挑んでいます。
私の友人は、熱烈な将棋フアンで、ネット中継をよく見ています。でも、将棋の駒の動かし方やルールを知りません。そのようなフアンが観戦を楽しめるのもAIのおかげ、一手ごとに候補手をランキング表示し、形勢を分析して勝利確率を表示していることがあるでしょう。勝利確率の変動を通して、戦況の変化を知ることができます。
藤井七冠は、AIが候補に挙げなかった手を打ち、勝利を引き寄せることがあります。AIを超える手を打ったと話題になりますが、棋士は、どのようにして次の一手を考え出すのでしょう?
将棋に関する脳科学研究
チェスと将棋は、起源が同じと言われるボードゲームで、よく似ています。チェスは8×8 (計64)、将棋は9×9 (計81)のマス目で戦います。そこに、チェスは両陣合わせて6種類32個、将棋は8種類40個の駒が配置され、一度に一つの駒が、その特性にしたがった動き方で移動します。相手のキングまたは王将(玉将)を詰めた方が勝ちです。
大きな違いは、チェスでは取られた駒は二度と復活しませんが、将棋では、相手の駒を取ったら自分の駒として使うことができます。そのため、将棋の方が展開の複雑さが増します。
1940年代〜70年代、チェスに関する認知科学的な研究が行われました。駒配置の認識の仕方など、将棋にも通じる知見が示されました。
1990年代、ベル研究所の小川誠二博士が、脳機能を可視化する磁気共鳴機能画像法(fMRI)を開発しました。これにより、人の脳活動を非侵襲的に計測できるようになりました。
そして2007〜12年、認知科学の方法とfMRIや脳波測定を用いた「将棋と脳の研究プロジェクト(将棋プロジェクト)」が、理研・富士通・日本将棋連盟の三者によって実施されました。その成果は、Science誌(2011年)やScientific Reports誌(2014年)に論文発表されています。また、「次の一手はどう決まるか:棋士の直観と脳科学」(勁草書房、2018年)で成果や経緯を知ることができます。
棋士の直観的な局面把握と指手の導出
対局後、棋士同士がその一戦を振り返る感想戦が行われます。さまざまな局面を棋士が速やかに再現することに驚かされます。
デタラメな駒配置を記憶することは、棋士にとっても容易ではありません。しかし、対局の流れで現れるような駒配置に関しては、棋士はほぼ一瞬で記憶できることが、認知科学的な実験で示されました。直観的に、いくつかの意味のある集合体(チャンク)に分けて認識するのだそうです。
直観的な局面理解や指手の導出について脳波とfMRIが測定され、棋士とアマチュア愛好家で違いが見られました。棋士の脳波は
・左前頭葉では、意味のある駒配置に対してのみ
・左側頭葉では、意味のある配置にもデタラメな配置にも同様に
反応しました。この脳波活動は、局面を見てから0.2秒という短時間で現れ、局面の直観的な理解に関係しています。
fMRIは
・大脳皮質頭頂葉の楔前部が、直観的な局面理解
・大脳基底核の尾状核が、直観的な指手の案出
において活動することを示しました。時間をかけて考えるときは、尾状核の活動は見られません。
まとめると、棋士の直観は次の流れになります。
①左前頭葉で駒配置の把握、左側頭葉で駒の価値などの分析を、迅速に並行的に行います。
②頭頂葉で情報処理を行い、楔前部から大脳基底核の尾状核に送ります。
③尾状核を使って情報を長期記憶と組み合わせ、最善手を導き出します。
棋士の長期記憶には、日々の棋譜研究や対局で蓄積した膨大な知識・経験が蓄えられています。
直観は、非意識的な情報処理やパターン認識に関連します。将棋プロジェクトは、脳の異なる領域が連携して情報を統合し、直観的な結論を導くことを明らかにしました。
直観と“読み”
たいていの場合、棋士は、直観的に浮かぶ候補手の中に最善手を見つけられるそうです。候補手は、”読み“によって検証されます。長考をするのは、直観を検証しきれず、候補手の絞り込みに迷いが生じているときのようです。
先々を読むとき、数手先の“場合の数”は爆発的です。そのため、読みの方向を大局観で制御することが重要だと、羽生善治九段(永世七冠)は言っています(人工知能の核心、NHK出版新書、2017年)。
AIが棋士を超えた日
羽生九段は、1996年に当時の7大タイトルすべてを独占し、史上初めて七冠を達成しました。1996年版の将棋年鑑に「コンピュータがプロ棋士を負かす日は?」という棋士に対するアンケートが掲載されています。多くの棋士が「そんな日は来ない」と否定する中、羽生九段の回答は「2015年」でした。
AIが出現したのは、1950年代でした。1997年にチェスの世界王者に初めて勝利します。2006年にディープラーニングの実用方法が登場し、今のブームとなります。
将棋の棋士が初めて正式にコンピュータと対局したのは、2007年です。コンピュータは、棋士に到底敵いませんでした。その後、将棋ソフトが進歩し、棋士を負かすようになります。特に2016年と17年の電王戦は、AIがトップ棋士を超えたことを象徴しています。棋士側と将棋ソフト側がそれぞれトーナメントを行い、双方の優勝者が対決したのですが、いずれも将棋ソフト側の2戦2勝でした。2017年の対戦者は佐藤天彦名人(当時)で、「私にない将棋観や構想があった」とコメントしています。
AIによる網羅的探索と分析・評価
AIと対局した棋士は、人間とは異質に感じたようです。プロセスの違いが関係するのでしょうか? 棋士は、先に直観によって指手の候補を絞り込み、読みによる分析で判断の良し悪しを検証します。一方、AIは分析から絞り込みの順で進みます。
どの駒をどう動かすかの“場合の数”は膨大で、一手ごとに指数関数的に増加します。AIは、これを圧倒的な処理能力で列挙、分析します。まず可能な指手の選択肢を探索し、手順のツリー構造を作成します。次に各選択肢について優劣を評価します。これを指標に選択肢を絞り込み、最終的に最も評価の高い手を選びます。
AIの処理力は、人間には真似できません。逆にAIのプロセスを人の直観に近づけようとする研究も、行われているようです。
直観を磨く
直観は、棋士に限らず、すべての職業で重要です。“直観”とよく似た語に“直感”があります。
広辞苑には、
直感:説明や証明を経ないで、物事の真相を心でただちに感じ知ること
直観:一般に、判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握する作用
とあります。直感は感性、直観は知性に基づくものと言えるでしょう。より磨かれた感性や知性をもちたいものです。
洞察に富む直観を得るためには、長期記憶のアップデートを続けることと、それを検索する力、検証する力を高めることが必要です。そうした能力の開発を、さまざまな領域でAIが支援し始めています。
人とAI
AI技術の進歩は、いろいろな分野に貢献することが期待されます。あり方が大きく変わる職種も予想されますが、新たに生まれる業種や職種もあるでしょう。
一方、さまざまな懸念も指摘されています。7月、米国のバイデン大統領は、「民主主義や我々の価値観に脅威をもたらす可能性がある」としてAIを規制する方針に言及しました。また、シンギュラリティ、すなわちAIが進歩して人間と同レベルの能力をもつに至ったとき、決定的な脅威になるという論もあります。
AIは、良くも悪くもきわめて大きな影響力をもちます。十分な議論が必要でしょう。大局観をどうもつか、そして賢明な指手を探索・検証しながら駒を進めることが重要です。