名誉教授コラム

UnityとDiversity
牧野富太郎博士の生涯から思うこと

井上英史

古いんだよ、お前は!

いろいろなところで聞かれる類の言葉ですが、4月〜9月に放映されたNHKの連続テレビ小説「らんまん」から引用しました。

このドラマは、日本の植物学の父といわれる牧野富太郎博士をモデルとし、その生涯をもとに創作されたものでした。主人公の槙野万太郎を通して、19世紀末から20世紀半ば、牧野博士が植物学にどのように向き合ったかに触れる機会となりました。

牧野富太郎博士の概略

高知県立牧野植物園によると、牧野博士は、1862年に現在の高知県に生まれました。寺子屋や塾で西洋の諸学科や英語を学びましたが、学歴は小学校中退です。授業に飽き足らず自主退学し、植物採集に明け暮れ、独学で植物を学んだのでした。

22歳のときに現在の東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、植物分類学の研究に打ち込みます。1887年、25歳で「植物学雑誌」の創刊に携わりました。1889年、この学会誌に新種ヤマトグサを助教授の大久保三郎と連名で発表し、日本人として国内で初めて新種に学名をつけました。

牧野博士は、94年の生涯で新種や新品種など1500種類ほどの植物に学名をつけ、日本植物分類学の基礎を築いた一人です。1927年、65歳で理学博士の称号を受け、1957年の没後に文化勲章を受章しました。「牧野日本植物図鑑」は、現在でも研究者や愛好家の必携の書となっています。

時代背景

牧野博士が6歳のとき、日本は明治の世に移り、近代化が進みます。「らんまん」でも、近代社会や大学の勃興期が描かれました。

時代背景を確認すると、明治元年が1868年、東京大学創設が1877年、日本植物学会設立が1882年、鹿鳴館建設が1883年、帝国大学令公布が1886年、日本帝国憲法公布・施行が1889と90年です。ちなみに、日本薬学会および東京薬科大学の前身の設立は1880年、薬学雑誌の創刊は1881年でした。

江戸時代、植物に関する知識は本草学や博物学として扱われ、薬用植物の栽培や園芸用の品種改良などが盛んに行われていました。しかし、学術的な研究は欧米に遅れをとっており、シーボルトやマキシモビッチといった外国人が、日本の植物の発見者として学名を命名するという状況でした。

明治初期、国内の植物標本は少なく、国内で日本人が主体的に新種かどうかを判別して学名を命名することは不可能でした。そのため、黎明期の植物学は、日本のすべての植物を採集し、それを理解し、記述することが大きな目標となりました。そこに牧野博士が加わりました。

「らんまん」に描かれた植物学研究の変化

ヤマトグサ発表の翌年、万太郎は、植物学教室への出入りが禁止されます。そして、三年後に復帰しました。

冒頭の言葉は、植物学教室に戻って来た万太郎に、変わりゆく大学で非職となった大窪助教授(大久保三郎がモデル)が言ったものでした。以前とは違うから戻らない方が良いという意味です。その後に続く大窪のセリフは、次のようです。

地べたを這いずる植物学なんぞ、終わったんだ。手間だけかかって見栄えもしない。もう、見向きもされない。

このやりとりが事実に基づいたものかは知りませんが、大学への復帰はリアル牧野博士が31歳のときです。その頃、所属する植物学教室の研究の中心は、標本収集から、植物内部の肉眼では見えないことに移っていました。

すなわち、裸子植物に精子があるかを顕微鏡観察で明らかにする試みがなされていました。その結実として1896年、世界に先駆けて平瀬作五郎(「らんまん」野宮のモデル)と池野成一郎(波多野のモデル)が、イチョウとソテツの精子を発見しました。

どの研究領域でも、その発展とともに、視点や潮流は移って行きます。

しかし、今、私たちが目にする牧野博士の偉業は、その後も変わらずに継続した長年の努力によって成し遂げられたものでした。牧野日本植物図鑑が刊行されたのは、1940年、78歳のときです。

UnityとDiversity

「らんまん」を見ながら、unityとdiversityという二つの語を思い浮かべていました。大学生の頃、研究はunityとdiversityなのだと、講義で繰り返し聞かされました。

研究にはdiversityとunityの過程、つまり、多様性やさまざまな事例を追求する過程と、知識を統合して普遍性、法則や理論を追求する過程があります。

「らんまん」の万太郎は、見慣れない草花を見かけると近寄って「おまん、誰じゃ?」と話しかけていました。日本中の植物を収集し、分類し、名前のないものに名前をつけることは、diversityを追求する過程です。

日本中の植物を収載した図鑑を刊行し、多様な日本のフローラをまとめることは、牧野博士の若い頃からの初志でした。何十年間も植物の標本を集め続けることは、古くて泥臭くても、博士が生涯をかけたunityへの尽力でした。

牧野博士が94歳で亡くなってから66年が経ちますが、牧野日本植物図鑑や関連する書籍は、今も出版されています。高知県立牧野植物園や練馬区立牧野記念庭園では、博士ゆかりの植物を見ることができます。

社会におけるunityとdiversity

辞書的には、unityは統一や一致、diversityは多様性や雑多といった意味ですが、研究だけでなく、あらゆることで大切です。例えば、どの組織にもまとまりが必要ですが、構成員は多様である必要があります。

雑草という名の草はない。牧野博士の言葉ですが、すべての多様な個性を等しく重んじる言葉です。「らんまん」では、この言葉が自由民権運動と結び付けて描かれたシーンがありました。実際、博士は、自由民権運動に加わっていた時期がありました。

近頃、国際情勢が不安定になっています。国家としての一体性と自由や多様性の、いずれにどれだけ重きを置くかのバランスは、国によって異なります。それは、世界を二分する要因にもなっています。多様性を受け入れない対立もあります。こうしたことから目を背けてはいられないと思います。

個の多様性と成長機会

同じ生物種であっても、個体によってDNAの塩基配列に違いがあります。一卵性双生児は理論上同じ塩基配列をもちますが、後天的にはDNAの構造に相違が生じます。

DNAの塩基配列もさることながら、人が生まれ育つ境遇は、一人ひとり異なります。豊かな環境で生まれ育つ人もいれば、戦乱の中で生まれ育つ人もいます。まったく平等ではありません。

志を貫いた牧野博士でしたが、それを支えた植物を観察する力、植物画を描く力は、少年時代に独学で身につけたものでした。裕福な家に生まれた牧野少年は、高価な書籍をいくらでも手に入れ、植物学にのめり込むことができました。

もちろん本人の努力があってこそですが、成長期の環境に恵まれていたことが素養の形成に大きく関係しています。しかし、どのような境遇に生まれるかは、自分ではどうにもできないことです。

誰もが得意を見つけ、芽吹き花咲かせる社会を

人は、一人ひとり特徴が異なり、さまざまなことで凸凹があります。

他者の苦手や短所を自分に照らして見つけ、助言することは、適切かどうかは別として容易です。一方、潜在的な才能を見つけることや、それを伸ばすために有効な助言や指導をすることは、誰にでもできることではありません。

そのため、苦手・短所に関する助言や指導は受けても、才能を見出したり伸ばしたりすることに関しては、十分な機会を得ずに成長することが得てして多いのではないでしょうか。

自分自身の「好き」や得意を見つけるためには、まずは知ること、体験することです。興味をもったら、経験を重ねてみることです。

牧野博士は、少年時代に「好き」を得意にし、得意を特異な力として継続した生涯でした。多くの少年少女・若者が、機会を得て潜在能力を芽吹かせ、大きく開花することを願っています。