名誉教授コラム

武蔵野のハケで会った蛾・蝶

井上英史

中央線を国分寺や武蔵小金井で降りて南へ進むと、下り坂に出ます。その辺りは崖が東西に通っていて、麓では水が豊かに湧いています。国分寺寄りには殿ヶ谷戸庭園、小金井寄りには滄浪泉園があり、どちらも湧水を生かした風情のある庭園です。小金井という地名は、「黄金に値する豊富な水が出る」ことから黄金井、転じて小金井になったと言われています。

国分寺崖線とハケ

殿ヶ谷戸庭園と滄浪泉園を通る崖は、立川市砂川九番から大田区田園調布付近まで30 kmに渡って続く、国分寺崖線(がいせん)の一部です。この崖線は、国分寺付近からは野川に沿い、野川が世田谷区二子玉川で多摩川に合流した後は多摩川に沿って延びています。

国分寺崖線は河岸段丘の連なりで、数万年前に古多摩川が流れを変えていく過程で武蔵野台地を侵食してできました(参考1)。宅地化や農地化が進みましたが、東京都環境局によれば、崖線の面積に対して約35%の樹林地が残っています。

国分寺崖線の崖はハケとよばれます。ハケは、特に崖下の湧水窪地を指す場合もあります。諸説ありますが、“水を吐く場所“が語源とのことです。武蔵国分寺跡近くのハケ、お鷹の道・真姿の池湧水群は、環境省の名水百選に選定されています。

野鳥の森の月の女神

真姿の池湧水群から高低差15 m程の崖を登ると、都立武蔵国分寺公園の野鳥の森に出ます。6月末、そこで1匹の蛾に目を奪われました。夜行性なのでしょう。動くことはなく、薄緑色の翅はまるで人工物のように見え、とても不思議な気持ちになりました。それは立ち入り禁止区域内にいたので、金網フェンス越しに写真を撮りました(写真A)。

画像検索すると、オオミズアオ(大水青)と一致しました。オオミズアオは短命で美しい蛾とされ、この蛾をデザインしたアクセサリーが種々販売されています。成虫は食べも飲みもせず、1週間程度の寿命だそうです。東京都23区部では、絶滅危惧Ⅱ類に指定されています(参考2)。そういうことならば、もっとよく見ておけば良かったと後悔しました。その後、再会はできていません。

オオミズアオは、鱗翅目(チョウ目またはガ目ともいう)ヤママユガ科Actias属に分類されます。開張10 cm前後の大型の蛾で、翅は薄い青色あるいは淡い黄緑色です。前・後翅とも黄色の小さな眼状紋があります。

オオミズアオは、月になぞらえてlunar-mothとかmoon-mothとよばれます。日本産のものの学名はActias alienaですが、以前はActias artemisでした。このartemisという種名は、ギリシャ神話の女神アルテミスに因んだものです。アルテミスは、双子の弟アポロンが太陽の神と称されるのに対して、月の女神とされます。「アルテミス計画」は、NASAが提案している月面探査プログラムです。

多くの蛾と同様に、オオミズアオは夜行性です。日中でなければ、月の女神の舞う姿を見られたのかもしれません。

進化における蛾と蝶の関係

蛾と蝶は、ともに鱗翅目に分類されます。鱗翅目の昆虫は16万種を超えますが、8割以上を蛾が占めます(参考3)。蛾の多くは夜行性ですが、蝶は昼行性です。蝶と蛾の進化的な関係はどうなっているのでしょう?

フロリダ大学の河原章人准教授によると、蝶は鱗翅目の中で一つの祖先から派生した系統だそうです(参考3)。鱗翅目の共通祖先が出現したのは、およそ3億年前です。河原准教授らは、蝶と蛾を合わせて2244種の遺伝子を分析し、進化系統樹を作成しました(参考4)。その結果、蝶が出現したのは1億年前と推定されました。ミツバチとの共進化で蜜の豊富な花が多様化したのは、1億2千年前といわれています。その直後、蜜の豊富な花を利用するように、日中に活動する蝶が出現したと推測されます。

武蔵野公園のクロアゲハ

野川は、国分寺市の日立製作所中央研究所敷地内の湧水を主源流とし、国分寺崖線に沿って流れ、二子玉川で多摩川と合流する一級河川です。ハケの湧水も、野川に流入しています。野川を下ると、府中市と小金井市にまたがって都立武蔵野公園があります。武蔵野公園の野川北岸のハケの下で、黒いアゲハチョウに出会いました(写真B)。クロアゲハのようです。

野川公園の有毒植物ウマノスズクサ

武蔵野公園に隣接して都立野川公園(調布市・小金井市・三鷹市)があります。野川公園の自然観察園も、ハケからの湧水が豊富です。園内を歩いていたところ、園路から外れた茂みで何やら撮影している人がいました。不思議に思って立ち止まったところ、「ウマノスズクサがある」と教えてくれました。

ウマノスズクサ(写真C)は、かつては薬用(去痰・降圧など)にも用いられましたが、腎臓毒性のあるアリストロキア酸(構造式D)を含む毒草です。東京都の本土部全域で、絶滅危惧Ⅱ類に指定されています(参考2)。

以前に自然観察園を訪れたとき、黒いアゲハチョウを見ました。よく観察できなかったのですが、ジャコウアゲハだったのかもしれません。と言うのは、ジャコウアゲハの繁殖は、ウマノスズクサ類に依存しているからです。実際、野川公園にはジャコウアゲハが生息しているようです(参考5)。

ウマノスズクサ、ジャコウアゲハ、クロアゲハの生態学的関係

ジャコウアゲハは卵をウマノスズクサの葉の裏に産み付け、幼虫は、その葉や茎だけを食べて育ちます。つまり、ジャコウアゲハの生息は、絶滅危惧Ⅱ類のウマノスズクサの保全にかかっています。

ジャコウアゲハの幼虫は、ウマノスズクサを食べることによってアリストロキア酸を摂取し、体内に蓄積します。成虫になると食性が変わり、ツツジ、アベリア、ハルジオン、ネム、キバナコスモス等の花の蜜を吸います。しかし、幼虫のときに摂取したアリストロキア酸は、体内に残存しています。そのため、ジャコウアゲハを食べた鳥は、アリストロキア酸による中毒を起こします。これを一度経験した鳥は、二度とジャコウアゲハを食べないそうです。

クロアゲハは、このことを利用し、ジャコウアゲハの姿を擬態して鳥からの攻撃を逃れます。これは、ベイツ型擬態とよばれます。本来無害な種が、捕食者による攻撃を免れるために、自らの体色や形を有害な種に似せる擬態の様式です。

武蔵野公園でクロアゲハに出会ったのは、自然観察園のウマノスズクサから数百メートルの場所でした。ジャコウアゲハが生息する場所の近くで、クロアゲハが擬態によって鳥からの捕食を免れているのかもしれません。

浅間山のジャコウアゲハ

府中市に、浅間山(せんげんやま)という標高80 mの小さな山があります。国分寺崖線から1.5 km程の場所で、古多摩川が削った後に残った残丘と考えられています。

浅間山も、都立公園として自然環境が保全されています。浅間山の同じ場所で何度か、ジャコウアゲハを見ました(写真E)。ジャコウアゲハが繁殖しているようです。浅間山にはウマノスズクサがあり、その保全が行われています(参考6)。

古多摩川が残した自然

浅間山から、古多摩川が残した地にビルや住宅の立ち並んでいる様子を見晴らすことができます。東京都多摩地域の人口は400万人を超えています。100年前は、30万人程度でした。湧水が多様な植物を育み、今よりも多くの昆虫や鳥が飛び交い、豊かな生態系を築いていたことでしょう。ときどき、浅間山に登って、そのような情景を重ねながら多摩の風景を眺めています。

【参考】

1. 東京都環境局(2022)、28 立川崖線・29 国分寺崖線、https://www.kankyo.metro.tokyo.lg.jp/nature/natural_environment/tokyo/area/28_gaisen
2. 東京都レッドデータブック(本土部)(2023) https://www.kankyo.metro.tokyo.lg.jp/nature/animals_plants/red_data_book/400100a20230424184941875/
3. Kawahara A.Y. ら(2023)A global phylogeny of butterflies reveals their evolutionary history、 ancestral hosts and biogeographic origins. Nat. Ecol. Evol. 7、 903-913.
4. 河原章人(2021) 昼と夜を分けた鱗翅目昆虫の進化、生命誌、 105、 Research 1、 JT生命誌研究館.
5. 吉田宗弘ら(2004) 東京都武蔵野地域の都市公園のチョウ類群集、日本環境動物昆虫学会誌 15(1)、1~12.
その他、Web上に目撃情報が複数見られる.
6. 浅間山自然保護会、https://fuchu-planet.jp/organizations/816

投稿日:2024年07月24日
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