名誉教授コラム

知識の体系と批判の精神

山岸明彦

 何かわからないことがあるとき、インターネットで調べれば大概の疑問に答えが出てくる。チャットGPTを使えば、かなり難しい社会問題や、人生相談のような漠然とした質問にも答えが出てくる。何か分からないことがあっても、気にすることはない、ネットで調べれば良い。

 さてそうなると、大学に行く必要があるのだろうか。読み書きの力と簡単な計算能力は必要だと思うが、様々な知識は必要なのだろうか。単なる知識は必要がないように思える。そう、大学や大学院までの教育で獲得すべきは、単なる知識ではない。大学や大学院までの教育で獲得すべきは、知識の体系と、それに新しい情報を付き合わせて判断する力、つまり批判の精神である。

チャットGPTは間違ったことをもっともらしく答えるらしい

 インターネットの情報やチャットGPTの問題点は、その情報が正しいかどうかが分からないことだ。「情報が正しいかどうかはどう判断するのか」と、チャットGPTに聞くと、「正しいかどうかの判断は人間の仕事です」とチャットGPTは答えてくれる。

あちこち比較してみる

 それでは、人間はどうやってその情報が正しいかどうかを判断すれば良いのか。グーグル検索で関連するサイトを探して情報を比較するのが、最も簡単な情報の確かめ方である。いくつかのサイトを比較して、同じ様なことが書いてあったら、とりあえずその情報の確からしさは高まる。

 同時にそのサイトがどういうサイトかを確認する。サイトが大学や研究機関、学術団体等の場合には最も信用度が高い。それ以外の場合には、サイトの運営組織や個人の損得、知識不足がその記載内容に反映している可能性を一応疑っておく必要がある。

 つまりは、信用できるサイトを比較して同じ様なことが書いてあったら、とりあえずその情報を信用する。

専門家としての態度

 ただし、専門家として何かを理解する必要がある場合には、それだけでは不十分である。サイトに引用されている論文を確認して、その記述がデータに基づいていることを確認する。論文が引用されていない場合には、そもそもその記述は信用できない。

 もっとも、専門家で無い場合にはそこまでは求められない。専門外の情報を確認する場合には、私も論文にまでさかのぼることはない。だれか、論文にまでさかのぼって確認していてくれそうな専門家の書いたサイトや解説、書籍等を参考にする。

 こうした作業を行っても分からない事柄は、それが私の専門領域でなければ「私には分からない事柄」に、私の専門領域であれば「まだ分かっていない事柄」に、頭の中で整理される。

時事報道

 時事報道では,その報道が事実であるかどうかが最も重要である。報道機関では、複数の情報源から事実確認をしているはずである。我々も複数の報道機関で情報を確認する方が安心である。

 映像や音声も、そう簡単に信用できない。改ざんないしねつ造された映像や音声があるらしいからである。偽の映像や音声をAIによって簡単につくることができるようになった、と報道されている。専門家には偽の映像や音声がそれなりに分かるらしいが、一般人がそれを簡単に見破ることができるとは思えない。

 さらに、映像や音声が本物だったとしても、その背景が分からなければその解釈はできない。一般の個人が写真や音声をアップロードした画像は、収集範囲の広さとその現場性で極めて貴重である。一方、その出来事の背景を情報収集した本人が理解しているかどうかは分からない。本物の映像や音声であったとしても、その解釈は信用できる報道機関の報道を頼りにした方が良さそうである。

批判の精神

 こんな事を書いていくと、私がつくづく疑り深いことがわかる。しかし、これが研究者に求められる態度である。真実に近づくためには、真実とそうで無いことを見分ける力が必要である。大学では、そのために必要な考え方と方法、知識を身に付けることができる。大学院では批判的態度、真実を見極める力、それに自分自身が出したデーターを含めて真実を判定する訓練を行う。こうして、批判の精神が身についていく。

知識の体系

 批判の精神で判断の基準になるのが知識の体系である。知識の体系というのは、多くの情報から得られた知識の全体像である。知識の体系がどういうものかということは、科学の体系がわかり易い。科学の体系については、名誉教授コラムの「科学とは:生命の起源を例に」を読んで欲しい。

 知識の体系は、科学の体系や学問の体系にはとどまらない。個々人は、身の回りの出来事から広く世界で起きた出来事まで、世界がどのような物であるのかをそれなりに理解しているはずである。個々人がもっている世界観も知識の体系と言って良い。

最後の判断基準

 新しい情報が正しいかどうか判断にこまった時、その情報が知識の体系に当てはまるかどうかでそれを判断することができる。新しい情報を知識の体系に照らして、つじつまが合えば、とりあえずその情報を信用することにする。その場合には、知識の体系に情報が増えることになる。

 知識の体系に照らして、新しい情報のつじつまが合わない場合には、「それはまだ分からない」ということになる。時には、前にとりあえず信用していた情報がそうでは無くなったりすることもある。こうして知識の体系も新しくなっていく。

 こう考えると、大学や大学院までの教育で獲得すべきは、知識の体系と、それに新しい情報を付き合わせて判断する力、批判の精神であると言える。