論説文というのは、何かの事柄に関して執筆者の考え、理解や意見を記述した文書である。新聞の社説やコラム、新聞や雑誌の記事などは大部分が論説文である。論説文は理論的文書といっても良いかもしれない。
小説や物語などでは、登場人物の体験や感覚、感情が記述される。それに対して、論説文では執筆者の物事に関する考え、理解や意見が直接的に記述される。多くの書籍も、小説や物語以外は論説文と考えて良い。
インターネットの解説、新聞や雑誌の記事等では、執筆者の意見では無く、何かが解説されているので、これらは解説文であるという考え方もある。しかし、解説や新聞記事も、だれか(執筆者の署名がなかったとしても)が執筆者の理解を記述しているので、このコラムに関する限り論説文の一種と考えて良い。したがって教科書の多くや学術論文も論説文である。
このコラムでは論説文をどの様に読むと、速く正確に読むことができるかという方法を解説する。論説文では、題や副題、文書や章の最初と最後、文書の区切り(段落や項目等)の最初と最後に重要な事柄が記述されているので、まずそれらを読めば論説文の内容を速く正確につかむことできる。
論説文の内容や結論は題や副題に書かれる
論説文の内容や結論は、論説文の題や副題にまとめられている。書籍の場合も同様で、書籍の内容や結論は、本の題と副題にまとめられている場合が多い。
文書の編集者がいる場合、題や副題が内容を反映しているかどうかを編集者がチェックしている。学術論文であれば審査員や編集者が、書籍であれば編集者が、新聞記事であれば編集委員がこれをチェックしている。つまり、きちんとした学術論文や書籍、新聞記事等では、題や副題が内容を反映している可能性は高い。したがって、題や副題を念頭に置いて本文を読めば、本文が速く正確に理解できる。
論説文は何段階かの重層構造をもっている
論説文は何段階かの重層構造をもっている。論説文の最小単位は文章で、文章がいくつか集まって段落を構成する。つぎに、いくつかの段落で一つの事柄が解説される。この一つの事柄に関連する一まとまりが項目となる。項目には小見出しが付く場合も多い。短い論説文は、いくつかの段落や項目で構成されている。
少し長い論説文の場合には、 いくつかの項目があつまって節(せつ)になる。節には節のタイトルがつき、節番号が振られる場合も多い。章立ての書籍では、さらにいくつかの節がまとまって章を構成する。各章では,章ごとに異なった事柄や、一つの事柄の異なった側面が解説され、章にも章題や章番号がつく。この様に、論説文は、段落、項目、節、章のような重層構造をもっている。
最初と最後に重要なことが記述される
その段落や項目の内容は、しばしばその最初の文章で記述される。それぞれの段落や項目の最後の文章には、その段落や項目の結論が書かれる。つまり、段落や項目の最初と最後の文章に重要なことが書かれている場合が多い。
段落や項目の最初と最後を読んでも内容が分からない場合、その文書は悪文である。国語の問題では、わざと悪文が出題される場合もある。その場合には仕方がない、執筆者が言いたいことを執筆者の代わりに読者が推察するしかない。しかし良い文書であれば、段落や項目の最初と最後の文章を読めばその内容と結論が分かる。
すこし長い論説文や書籍の最初には要旨や序文、「はじめに」等が付く場合が多い。題、副題だけでは内容が分からない場合にもこれらをよめば論説文や書籍の内容が分かる。論説文や書籍の結論が、最後の段落、最後の節、最後の章や「おわりに」として書かれる場合もある。つまり、すこし長い論説文や書籍の場合にも、文書の最初の部分と最後の部分を読めば執筆者の言いたいことがだいたい分かる。
書籍の各章でも、各章の最初の節に各章の内容がまとめてある場合が多い。また各章の最後に各章のまとめが置かれる場合も多い。したがって、各章の最初と最後を読めば、その章の内容がわかる可能性が高い。
つまり理論的文書では、文書の構造単位の最初と最後に重要なことが記述されているので、そこを読めば内容が把握できる。内容を把握した後で本文を読めば、効率良く本文の意味を理解することができる。
最初と最後を読んでも分からない場合、丁寧に読む価値があるかもしれない
文書全体の最初と最後や、章の最初と最後を読んでも、その意味が分からない場合、その文書あるいはその章には、読者の知らない重要な点が記述されている可能性がある。特にそれまで読者が知らなかった観点や概念、新しい考え方が書いてある場合には、それを理解することは難しい。こうした文書あるいは章を理解するためには途中を飛ばさずに、最初から最後まで丁寧に読む必要がある。
文書を読んで、その内容が納得できれば自分の知識の体系に取り込む。納得できなければ、「こんなことを言っている人もいる」という記憶にとどめておく。全く納得できなければ忘れてしまおう。人間の記憶容量は無限ではない。