名誉教授コラム

マッコウクジラの香しい腸内結石

井上英史

昨年7月、沖縄県の海岸を散歩していた30代の男性が、龍涎香(りゅうぜんこう)らしきものを見つけました。今年7月17日のアンバーグリースジャパン社のプレスリリース(参考1)によると、鑑定の結果、本物と確認され、国内最高値となる442万円(268 g)で販売されることになったそうです。

龍涎香とは

龍涎香(アンバーグリス)は、古くからヨーロッパおよびアジアで海岸に漂着した蝋状の固体として知られ、香料や媚薬、伝承医薬等として使われていました(参考2, 3)。千夜一夜物語(アラビアンナイト)にも登場します。千夜一夜物語の原型は9世紀頃にバグダードで成立したとのことですので、この頃すでに龍涎香が使われていたことがわかります。さらに古代ギリシャやローマでも珍重されていたようです。古代エジプトでは、宗教儀式や葬儀で使われました。

龍涎香(アンバーグリス)は、灰色、琥珀色、黒色などの大理石状の模様をもちます。アンバー(amber)は琥珀、グリス(gris)は灰色を意味します。龍涎香は海岸で見つかりますが、琥珀の産地も多くは海岸の近くです。昔のローマ人やギリシャ人にとって琥珀と龍涎香はいずれも、海岸に流れ着き、貴重・高価で利用価値の高い物でした。

中国では、深海にひそむ龍が安息の眠りの中で香り高い“よだれ”をたらすと考え、龍涎香と名付けられました。

龍涎香の正体

龍涎香は長い間、海岸に流れ着いたものが知られているだけで、何に由来するのかはわかっていませんでした。18世紀頃、捕鯨が盛んになり、龍涎香がマッコウクジラの消化管から見つかるようになりました。ただし、100〜200頭に1頭程度です。

龍涎香の正体は、マッコウクジラの腸内で生じる結石です。体外に排出された後に海岸に打ち上げられたものや、海に浮いていたものが、珍重されていました。

マッコウクジラの好物はイカです。イカには硬い嘴(カラストンビ)があり、消化されません。こうした未消化物が腸内で結石をつくり、便と共に排出されます。排泄された龍涎香は、水より比重が軽いので海面に浮き上がり、海岸まで流れ着きます。この間、太陽光(紫外線)にあたり空気に触れることによって酸化し、熟成が進みます。当初は排泄物臭がありますが、海面を漂っているうちに失われ、長く漂っていたものほど良質になると言われています。

龍涎香は、商業捕鯨が行われる以前は、海岸に漂着したものや漂流中のものを偶然に入手するだけで、非常に貴重な天然香料でした。商業捕鯨が行われるようになると、マッコウクジラの解体時に入手できるようになりました。しかし、1980年代の商業捕鯨の禁止後は再び偶然に頼るしかなく、希少価値が高くなりました。

マッコウクジラの名前

マッコウクジラは、北極海や南極海を除いて広く生息しています。子供の頃、このクジラが大好きでした。図鑑に描かれた水面から飛び出す姿が格好良かったし、大きくて特徴的な形の頭も魅力です。しかし、どうしてマッコウクジラというのだろう? お香の匂いがするのだろうか? と思っていました。

マッコウクジラの名前の由来には諸説あります。最もよく見る説明は、このクジラに由来する龍涎香が抹香と似た香りをもつことから“抹香鯨”というものです。角川古語大辞典には、「まつかうくぢら」として抹香鯨と真甲鯨が併記されています。「真甲」や「真向」は、額の真ん中を意味します。このことから、真甲鯨という呼び名は大きくて特徴的な頭部に由来するという説があります。しかし、中国名が抹香鯨であることを考えると、真甲鯨は抹香鯨への当て字なのかもしれません。

英語ではsperm whaleといいます。マッコウクジラの大きな頭の中には、脳油あるいは鯨蝋とよばれる油脂が詰まっています。この英名は、頭部から採取される脳油が白濁色で、精液(sperm)と誤解されたことに由来します。

マッコウクジラの学名は、Physeter macrocephalusです。Physter は、ギリシャ語のphusteter(パイプ)から転じ、このクジラの特徴的な噴気孔を表しています(参考4)。クジラ類は、ヒゲクジラ類とハクジラ類に大きく分かれます。噴気孔は、ヒゲクジラには二つありますが、ハクジラは一つです。マッコウクジラの噴気孔は最前方左側にあって、“潮”は斜め45度に吹き上げられます。macrocephalusは、ギリシャ語のmakros(長い)とkephale(頭)に由来し、マッコウクジラに特徴的な「長い頭」を意味します。

抹香とは

抹香は、焼香のときに使われる粉末状の香です。かつては、沈香(ジンコウ)や白檀(ビャクダン)などが用いられていましたが、現在は主に樒(シキミ)の樹皮と葉を乾燥して粉末にしたものが用いられています。

沈香、白檀、伽羅(きゃら)は、香木の代表です。伽羅は、沈香のうち特に高品質のものです。正倉院収蔵の天下の香木、蘭奢待(らんじゃたい)は、織田信長が切り取ったという逸話がありますが、沈香・伽羅です。

沈香は、ジンチョウゲ科ジンコウ属の樹木において、木部に傷害や病害が生じた際に防御応答として生成される樹脂が内部に沈着したものです(参考5)。熱を加えると放香します。現在、ほぼすべてのジンコウ属が、絶滅のおそれのある野生動植物種の国際取引に関するワシントン条約の、希少品目第二種に指定されています。

白檀は、ビャクダン科の半寄生性の熱帯性常緑樹です。芽が出始めた当初は独立して育ちますが、途中から他の植物に寄生し、養分を奪って成長します。白檀の特徴は、爽やかな甘い芳香です。熱を加えなくても香気を発し、線香の他、数珠や扇子、仏像等の工芸品に使用されています。

シキミは、マツブサ科シキミ属の常緑小高木です。樹皮や葉に芳香があり、仏事に広く使われ、抹香や線香の原料になっています。生化学や天然物化学を学んだ人にとっては、果実から単離されたシキミ酸が馴染みでしょう。芳香族アミノ酸の生合成前駆体であり、その反応経路であるシキミ酸経路は、植物の代表的な二次代謝経路です。

龍涎香の香り成分

龍涎香の構成成分の大部分は、コレステロールの代謝産物のコプロスタノールと、トリテルペンの一種のアンブレイン(図A)です。アンブレインの含量が多いものほど品質が高いとされますが、この化合物自体に香りはありません。龍涎香が海上を浮遊する間に、アンブレインが日光と酸素によって酸化分解をうけ、各種の香りをもつ化合物が生成すると考えられます。香りに重要な化合物として、アンブロキシド(図B)やアンブリノール(図C)などがあります。これらは合成香料としても製造され、龍涎香の代替品として使用されています。

龍涎香のアンブレインがどのように生成しているかは不明です。新潟大学等のグループは、微⽣物の酵素を⼈⼯的に改変してアンブレイン合成酵素を創出し、アンブレインの効率的な酵素合成法を確⽴したことを2020年に報告しました(参考6)。アンブレインから⿓涎⾹の⾹気成分への効率的な化学変換にも成功し、生物活性についても研究が行われています。

運をつかむには…

Web検索すると、散歩中に見つけた龍涎香に1千万円以上の値がついたとか、1億円以上の価値があるものだったというような海外の例が散見されます。まさに一攫千金です。

今回の沖縄県での発見は、国内では戦後5回目の例のようです。海岸を散歩しても、そうそう遭遇できるものではないですね。仮に遭遇したとしても、龍涎香のことを知らなければ鑑定依頼など思いもよらず、チャンスを逃して終わってしまいそうです。

【参考】
1. 有限会社アンバーグリスジャパン、プレスリリース(2024年7月17日)、“小売価格が国内最高値の442万円! 紀元前から伝わる希少な香料「龍涎香」を沖縄の海岸で発見”、https://presswalker.jp/press/49247
2. 田島木綿子、“海獣学者、クジラを解剖する。”、山と渓谷社(2021年)
3. 竜涎香文化の復興プロジェクト、“竜涎香についての基礎知識”、https://ambergrisjapan.com/
4. 大隈清治、“鯨類の学名の意味”、鯨研通信、第336号(1980年)
5. 田中 憲蔵、“東南アジア熱帯林の沈香木”、自然探訪2021年2月、国立研究開発法人 森林研究・整備機構 森林総合研究所.
6. Yamabe Y. ら, “Construction of an artificial system for ambrein biosynthesis and investigation of some biological activities of ambrein.” Sci. Rep. 10, 19643 (2020年)

投稿日:2024年09月24日
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