名誉教授コラム

読書感想文? 多読とあらすじ

山岸明彦
 

筆者の中学校時代、芥川龍之介の短編小説「トロッコ」が当時の国語の教科書に載っていて、その感想文を書く宿題がでた。あらためて芥川龍之介の「トロッコ」を読んだ。

「トロッコ」の感想文

トロッコは小型の無蓋貨車のことで、建設現場で様々な運搬に用いられていた。トロッコに動力は無く、土工(土木工事作業員)が手で押してトロッコを移動させる。トロッコは重く、その移動は土工にとって重労働である。しかし子どもにとって、トロッコを押すことは魅力的な遊びにみえた。

軽便鉄道開発現場近くに住んでいた良平は若い土工に頼んで、トロッコを押す手伝いをさせてもらった。上り坂ではトロッコを押して登り、下り坂ではトロッコに乗せてもらって坂を下った。日暮れが近づきふと気がつけば、良平はこれまでに来たことのある距離の何倍も遠い所にまで来ていた。土工は茶店でゆうゆうと茶などを飲みはじめたが、良平は気が気ではない。そんな良平に、茶店から出てきた土工は「われはもう帰んな」と言った。とってつけたようなおじぎを土工にすると、良平はもと来た方角に向かって線路の脇を駆けだした。板ぞうりをぬぎ捨て、はおりもぬぎ捨てて、良平は夕闇が迫る長い道のりを走り続けた。良平がやっとかれの村にはいると、両側の家には電灯がともり、村の男衆と女衆は良平をみて「おいどうしたね」などと声をかけた。家に着いた良平は、母に抱きかかえられながらなきつづけた。

おそらく多くの子どもが、似た様なことを体験する。知らない隣町や遠くへ一人で遊びに出て、帰ろうとするが道は遠い。家に帰り着けないうちに日が暮れていく。子どもは誕生すると父母のもとで育つ。子どもはやがて近くの子ども達と遊ぶようになる。子どもは、自分の世界を少しずつ広げていく。

芥川龍之介は、大正時代、特に短編小説を多く世に出した。当時の日本では、鉄道の開発が進んでいた。「トロッコ」は、小田原と熱海をつなぐ軽便鉄道の開発現場近くに住んでいた主人公、良平の子ども時代の記憶である。

良平は26歳の時、妻子とともに東京にでてきて、今はある雑誌社の二階で校正の仕事をしている。良平は今も、ぜんぜんなんの理由もないのに、その時をおもいだす。かれの前には“いまでもやはりそのときのように、うすぐらいやぶや坂のある道が、ほそぼそとひとすじ断続している・・・・。”

当時の日本では、近代化の進行により故郷はしだいに失われていった。良平は、今もトロッコの暗い帰り道の孤独を、東京で感じているのかも知れない。電灯がともる家々、良平に「どうした」と声をかける村の男衆と女衆、父母が待つ家、これらは良平のノスタルジーなのであろう。

感想文?

さて、この作文で中学校感想文の合格点がもらえるのだろうか。「トロッコ」の感想文では何をどの様に書けば合格の基準に達するのだろう。そして、その基準は当時の教科書のどこに書いてあったのだろう。

当時なぜか、「感想文はあらすじでは無い」と言われた記憶がある。それでは、感想文には何を書けばよいのであろうか。「感じたことをありのままに書けばよい」と言われた様な記憶もある。「冗談ではない、普通の中学生が感じたことをありのままに書ける訳がない」と、今になれば言える。私は定年すぎになって、感想文らしいものを書ける様になった。しかし、こう書けば良いのであろうという憶測で感想文を書いているのであって、感じたことをありのままに書いているわけでは無い。 

すこぶる作文の上手な生徒が、当時のクラスにいた。もちろん、感じたことをありのままに書くことが出来る中学生がいることを否定する訳ではなく、尊敬する。しかし、ありのままに書くにせよ、こんなことを書くのであろうと推察して書くにせよ、普通の中学生にこうしたことができるのであろうか。当時全国1学年約200万人の中学生が達成すべき課題は「感想文を書く」ことだったのであろうか。もし当時、全国の中学生に感想文執筆が課題としてだされていたとすれば、それが落ちこぼれを増やしたのではないかと、いまさらながらに心配する。

もちろん小説を読む練習は重要であろう。「土工が茶などをゆうゆうと、の“ゆうゆうと”は何を表現しているか」、「良平はなぜとってつけたようなおじぎを土工にしたのか」、「なぜ良平は母に抱きかかえられながらなきつづけたのか」等を議論し、書かれている内容を読み解く練習をすることには意義がある。

昔の中学校国語の先生への御願い

小学校や中学校で読み書きを習ったことによって、当時すでに私はそれなりに読書をするようになっていたと思う。国語教育には感謝している。「トロッコ」も気に入った。しかし感想文を書くことは、大嫌いであった。そもそも感想文に何を書けばよいのか、わからなかった。昔の中学校の亡くなられた国語の先生にお伝えしたかったことがあった。読書感想文を課題にするのをやめてほしかった。楽しい読書を、苦痛に変えないでほしかった。

中学校国語の先生への御願い

読書能力は、読破した文字数に依存して向上する。多読をするためには、楽しんで読める様な書物を多数読むことが必要である。本人が好きな、読んで面白いと思える本を自由に読んで良いということにしたほうがよい。

人間は感動すると、感動は記憶に残り、その記憶は人生で意識的、無意識的に利用される(名誉教授コラム「昔話はなぜ怖い」)。読書の感動とそこで得た疑似体験は、様々な局面で役に立つはずである。そういう本を、ひとは直観的に「面白い」と感じるのだとおもう。中学生には「面白い本」をたくさん読んでほしい。

中学生が自分で読んだ本を要約して、あらすじを報告するというのは良いかもしれない。これにより、文章を書く力も上がるはずである。あらすじであれば、「ありのまま」を書くことができない中学生の私にも書けたと思う。

投稿日:2024年11月05日
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