若⼿研究者コラム

研究の「楽しい」をじっくり紐解いてみる

藤川 雄太

コラムの依頼を受けて、はてどのようなことを書こうかと思い悩むが、良い機会だと思い、助教という職位は気にせずに、日頃考えていることを綴ろうと考えた。

僕は東京薬科大学に着任して7年になるが、これまで生きた細胞で蛍光観察を行うための道具となる分子「蛍光プローブ」の開発をメインに進めてきた。着任当初から紆余曲折を経ながらも、つい先日念願叶って市販化に至った。この研究を行う過程で学ぶことはただただ多かった。例えば分子のデザイン1つとっても、僕自身が思っていた化合物が機能せず、一緒に研究を行ってくれる学生が、(裏実験* をこっそり行っており)僕の想定を超えた実験にトライしてくれたことが大きなブレイクスルーとなった。恐らくこの学生さんは、「先生や上の立場の人が言うことが絶対ではないこと」と、「自分自身が疑問に思ったことを(上司の意向に反してでも)確かめようとすることの大切さ」を学んだに違いない。僕自身はある面から考えると指導教員としては頼りないのかもしれないが、学生さんが生きていく上で重要な点の学びに貢献できたと考えれば、幸いである。世の中、教師か反面教師しかいない。僕の母の言葉である。

研究を生業としていない友人などから、なぜ研究をやっているのか?と聞かれることがある。これまではただ「新しいことにチャレンジできることが楽しい」と答えていたが、この「楽しい」という言葉の定義をじっくり紐解いてみた。これは「予想外が多くあるから楽しい」ということではないかと思う。すなわち、学生さん自身が伝えてくれる考え であっても、研究の過程で起こる現象であっても、共通なのは僕自身だけでは思いつきもしないことが世界にはたくさんあるという実感である。それは、自分が考えている世界がいかに自分の思い込みやバイアスに満ちたものかを知ることとと同義であるようにも思う。このような経験を通して、自分自身もっと謙虚にならなければと思う。

正解のない議論を学生さんたちとよくするが、そのときに「なぜ勉強するのか?」といったことが話題になる。僕自身の考える見解は、「いくら勉強しても知らないことがたくさんある。」という、ソクラテスの「無知の知」のようなものを実感するためではないかと考えている。そう考えると学生の学びをサポートする立場の教員といいつつ、最も学びの機会を与えられているのは教員自身ではないかということに気づくのである。

*裏実験:指導教員に黙ってこっそり行う実験のこと。学生の自立の一歩と捉え、気づいていても気づかないふりをすることが多い。