生命の根幹を司るリン脂質代謝を研究
「多くの生物はたくさんの細胞で構成され、1つ1つの細胞が、細胞外からの『細胞を増殖する』『分化する』『ホルモンを分泌する』などのさまざまな指令を細胞内に伝えることで、協調して生命を維持しています。そうしたシグナル伝達系の一つにイノシトールリン脂質代謝があります。この代謝系は、細胞膜を構成するリン脂質を分解して細胞内のカルシウム濃度を制御することから、細胞の増殖・分化、受精や神経機能など生命の基本的な現象に深く関与しています。いわば生命の根幹を司る代謝系です」。そう説明するのは、イノシトールリン脂質をターゲットとして研究する深見希代子教授だ。教授は特に増殖や分化が盛んな皮膚や消化管などの上皮系組織に照準を絞るとともに、細胞増殖・分化の制御不全によって起こる上皮性がんの発生メカニズムも解明しようとしている。
「イノシトールリン脂質代謝では、ホスフォリパーゼ(PLC)という酵素がリン脂質の分解を促し、細胞内のカルシウム放出を制御しています」と深見教授。教授は、さまざまなタイプのPLCの遺伝子をマウスで操作することで、生理的作用を検証し、酵素の不全がもたらす疾患を明らかにしてきた。その一つにカルシウム動態が重要な役割を果たす受精に着目した研究がある。
受精は、精子の先体から放出されたプロテアーゼという酵素によって卵の透明帯が分解され、精子が通過する(精子先体反応)ことで可能になる。この時、卵ではカルシウムオシレーションと呼ばれるカルシウムの周期的な上昇が見られることが知られている。深見教授はPLCδ4の遺伝子を欠損させた(KO)マウスを作製し、検証を試みた。その結果、PLCδ4のKOマウスの精子はカルシウムオシレーションの異常により先体反応不全を起こし、雄性不妊になったことから、PLCδ4がカルシウム動態を制御することで受精に関与していることを突き止めた。
炎症性皮膚疾患の治療に有望な新たな因子を発見
続いて深見教授は、PLCδ1が毛の形成に重要な役割を果たしていることも明らかにした。「皮膚は毛、表皮、脂腺などで構成され、外部から細菌が入って感染するのを防いだり、体液を保持するといったバリアとして働く重要な組織です。幹細胞からの増殖と分化をひんぱんに繰り返すことで組織は常に新しく生まれ変わっています」と深見教授。PLCδ1が欠損したKOマウスを作製したところ、毛のないヌードマウスになったことから、PLCδ1が毛の形成に関わっていることを実証した。
さらに乾癬やアトピー性皮膚炎などの炎症性皮膚疾患にもPCLδ1が関与していることを確かめている。通常皮膚は、上皮細胞同士が強固に接着することでバリア機能を発揮しているが、乾癬やアトピー性皮膚炎などの炎症性皮膚疾患は、このバリア機能が失われることが原因の1つである。深見教授らは、表皮特異的にPLCδ1を欠損したKOマウスを作製。このマウスはバリア機能が失われ、ヒト尋常性乾癬に似た表現型を示すことを見出した。実際、尋常性乾癬患者の表皮でもPLCδ1が減少していることを確かめ、PLCδ1がヒトの尋常性乾癬の発症や悪化に関与していることを実証した。
深見教授の目標はこうした知見を乾癬やアトピー性皮膚炎に対する創薬に結びつけることだ。そのために薬の候補として有望な因子を見つけるだけでなく、その作用機序や分子メカニズムを解き明かすことも重視している。
大腸がん、メラノーマに関与する因子を探索
一方、深見教授は、表皮と同じ上皮系組織の疾患である大腸がんでもPLCδ1の発現が低下していることに注目。PLCδ1が、細胞間接着に関係するE-カドヘリンというタンパク質の発現に関与していることを報告している。「E-カドヘリンは上皮細胞同士をつなげる接着剤の役割を果たしています。ところがPLCδ1が減少してE-カドヘリンが発現されないと細胞間の接着が緩み、細胞が揺らぐことでがん細胞の転移や浸潤が起こりやすくなります。このことからPLCδ1が、がん抑制遺伝子としても機能することを明らかにしました」と説明している。[図1・2]