若⼿研究者コラム

ポジティブマインドから新しい挑戦へ

草間 和哉

コラムの依頼を受け、何を書こうか悩んでいる時、院生から「先生はいつも何を考えているのですか?」と聞かれ、いつも「本当に何も考えていないよ」というやり取りをしていることが頭に浮かんだ。そこで、私がこれまで何をどう考えてここまで来たか思い出しながら綴ろうと思った。

幼少期はどこにでもいる普通の子であったと記憶しているが、両親のおかげで中学受験により中高一貫の男子校に入学した。中学では部活に打ち込みすぎて学年成績が下から10位なんてことも茶飯事だった。

転機は中学3年の夏、担任の先生からの「お前は頭がいいのになぜ勉強しないのか? 一回よく考えろ」という言葉だった。褒められた気がして漠然と勉強しようかなという意識が芽生えた。偶然ではあるが、その直後のテストは出来がよかったため、単純であるが、自分はやれば出来るというマインドが生まれた。理系男子校という特殊な環境で、同じ様に理屈っぽく成長した周りの友人からは「草間って変わっているよね」といつも言われていた。その当時は「AB型だからね」という返しをして、あまり深く考えていなかったが、よくよく考えると、流行りから少し外れた物を好み、周りと一緒というのを嫌厭していた、いわゆる厨二病みたいなものである。

東薬に入学してからは、部活に打ち込み成績は奮わないという何処かで聞いた様なことが繰り返されていた。次の転機は3年生の卒論配属である。知人の先輩がいたこともあり、いっぱい実験させてくれたので、同期よりも少し実験が出来ると思い込んでいた。先生の指導あってのことだが、基本的には自分は出来る奴という思い込みだけで博士課程まで突き進んだ。この思い込みは加速し、自分は研究者としてやって行けるとまでになっていた。

最大の意識改革はポスドクの時に起きた。ボスは器が大きく、何でもやらせてくれて、いつでもディスカッションしてくれた。そんなボスから言われたことで私のベースともなっている言葉は、「君は世界と競争して研究していることを意識しなさい。君が考えていることは必ず誰かも考えているはずだから、その半歩でも先を行ける様に取り組みなさい。私たち研究者は成果を出すことに責任がある。」というものである。それからはスピード感を意識し、悩むよりは何事も挑戦するというスタンスに変わっていった。

改めて自分がどう考え行動してきたか書き並べてきたが、自分は出来るという思い込みと挑戦する行動力、新しいことがないかという日々の妄想で研究しているらしい。結局のところ厨二病の延長で、人と違うことをするのが楽しいのだと思う。