世界初・ヒト人工染色体がバイオ医薬の可能性を広げる
ゲノム編集技術の飛躍的な進歩は、ゲノム塩基配列を書き換え、生命の設計図を変更することを可能にした。とはいえ現状の技術で編集できる塩基配列は、数万塩基対程度の小さな部分に限られている。ヒトのゲノムは、30億もの塩基対からなるが、ゲノム情報を医薬品開発などに生かしていくためには、より大きなゲノムサイズを扱う技術が求められる。この課題に革新的な解を提示したのが、冨塚一磨教授が鳥取大学との共同研究によって開発したヒト人工染色体(HAC:Human Artificial Chromosome)だ。
細胞核の中では、コンパクトに折り畳まれたゲノムDNAが染色体に収納されている。その構成要素の中でも染色体の安定維持や細胞分裂の際の分配になくてはならないのが、染色体の長腕と短腕が交差する部位にあるセントロメアと、染色体末端を保護しているテロメアだ。冨塚教授らは、ヒトの21番染色体からすべての遺伝子を取り除き、セントロメアとテロメアの基本構造だけを持つHACを作製する技術を開発した。「HACは、例えるならさまざまな機能・性質を持つ遺伝子=アプリケーションを搭載できるオペレーティングシステム(OS)のようなものです。このOSの特長は、圧倒的な容量の大きさ。HACは従来の遺伝子工学技術では扱うことが難しかった100万~1000万塩基対の巨大な遺伝子を一気に搭載することを可能にしました」と冨塚教授は解説する。
HACは、抗体医薬をはじめとした次世代のバイオ医薬品創製の可能性を大きく広げる。冨塚教授によると、マウス抗体やマウス抗体とヒト抗体を繋げたキメラ抗体などの抗体医薬は、ヒトに投与すると拒絶反応を起こしたり、効果が弱まったりすることがある。いっぽうヒトの抗体遺伝子の長さは数百万塩基対にも及ぶため、遺伝子工学技術では扱うことはできなかった。冨塚教授らは、ヒト免疫グロブリン(抗体)遺伝子を組み込んだHACをマウスに導入することで、世界で初めて完全なヒト抗体を発現するマウス(TCマウス)の作製に成功。このTCマウスを使うことによって、より安全で効果の高い抗体医薬品の開発が可能になった。すでにTCマウスを用いたヒト抗体医薬品が開発され、日欧米で承認されているという。
冨塚教授は、30年近く製薬企業で医薬品の研究開発に従事する中で、ゲノム情報を創薬に活用する取り組みが思うように進まないことにジレンマを感じてきた。東京薬科大学で研究する道に転じた背景には、創薬を担う企業のニーズとその基盤となる基礎研究を担う大学や研究機関の両者を橋渡しし、新たな医薬品創製に貢献したいという強い思いがある。
HACを再生医療に応用
がん治療用細胞医薬の開発に挑む
現在冨塚教授は、HACの再生医療への応用にも力を注いでいる。iPS細胞は、ヒトから採取した体細胞に特定の遺伝子を導入して作られる。この遺伝子を細胞に入れる「運び屋(ベクター)」としてHACを活用しようというのだ。「従来のウイルスベクターなどとは異なり、HACならゲノムを傷つける心配がない上に、搭載する遺伝子のサイズに制約がないので、さまざまな性質を持った遺伝子を導入し、付加価値の高いiPS細胞を作ることが可能になります」と冨塚教授は語る。その一環として、2020年10月、HACを導入したiPS細胞からCAR-T(カーティー)細胞を誘導し、がん治療用の細胞医薬を開発するプロジェクトを始動させた。
2020年3月に承認された白血病の最新治療「CAR-T細胞療法」は、国内で初めて遺伝子改変技術を利用したがん免疫療法として大きな話題を呼んでいる。患者自身の免疫細胞(キラーT細胞)を取り出して、がん細胞の表面に発現する抗原を認識して攻撃するよう設計されたキメラ抗原受容体=CARを作るCAR-T細胞に改変し、患者の体内に戻すという治療法だ。その高い治療効果に期待が集まるが、個別に遺伝子改変が必要なために莫大な費用がかかるという問題がある。
冨塚教授と共同研究を行うグループがiPS細胞からキラーT細胞を作製する技術を開発。冨塚教授らは、CAR遺伝子を搭載したHACをそのiPS細胞に導入し、汎用的にCAR-T細胞を作製する技術の開発を目指すという。成功すれば、より多くの患者が「CAR-T細胞療法」を受け、がんを治療できるようになる。
「ゲノムを書く=生命をデザインする」未来にHACが貢献する
「いまやゲノムを読んだり、書き換えたりする時代から、『ゲノムを書く=生命をデザインする』時代を迎えようとしています」と語った冨塚教授。2016年からアメリカの研究者を中心に、「ゲノムを書く」ことを目標に掲げたプロジェクトが始まっているという。「すでにコンピュータで約100万塩基対のゲノムを設計し(書き)、細胞の増殖まで成功した例が報告されています。最初は試行錯誤になるでしょうが、ゲノムを設計、構築し、試験して知見を蓄積するサイクルを繰り返すことで、ゲノム設計に関するテキストブックが充実していくことでしょう」と予見するとともに、「合成されたDNAの塩基配列が実際に細胞や個体でどのように機能するか、試験する技術の開発にHACが活用できる」と意欲を見せる。今後の冨塚教授らの研究が「生命をデザインする」未来へ、大きな貢献を果たすことになる。